先日、
「釣れなかったから楽しくなかった」は釣り人としてまだまだ。釣れなくても楽しめたら釣り人として一人前。
みたいな啓蒙文章を見かけた。
そして「俺は釣りを楽しみたいだけなのに魚釣った数で上から目線こいてくるウザいヤツ多すぎるんだよ!!」と言った感じのコメントも添えられていたように記憶している。
私がそれを見た時は「なんでそんな観点で論争が起きるのだろうか?」と気に留めなかったのでかなりうろ覚えだけどそんな感じの文言だったかと記憶している。
この啓蒙文を見て君はどう感じるだろうか。
人それぞれの感想になるとは思うけどだいたい以下の通りが多いんじゃなかろうか。
- 良いこと言うね~
- その通り!釣りは楽しまなきゃ!
- 魚釣れないヘタクソの言い訳www
- どっちでもいいけど心の中だけにしとけよ
みたいな反応が多いかな?多分。
正直こういうテーマを扱うのは慎重にならなければならない。正解がないから。
どちらかの方向から見ればどちらかが正解であり、望まれる答えと違った解答をすると非難の対象となる可能性がある。
でもこのクソブログはド陰キャの私がたまにこの手の正解がないテーマを外野から無責任にテキトーこいちゃう。
今回は正直、誤解なく語弊なく書ききれるか微妙ではある。
まず、私の個人的な見解
「釣った数の多寡(多い少ない)や勝ち負けじゃない!釣りは楽しんだもの勝ち!」
これに限らずこの手の文言は釣りを嗜む人だったら一度は言ったことあるかもしれないし一度は聞いたことがあるかもしれない。
そして恐ろしいことに、一見するとものすごく自然な正論に見える。
いや違う。ド陰キャの私個人的には全然違う。
- 釣った、釣れなかった
- たくさん釣れた、少ししか釣れなかった
- 楽しんだ、楽しめなかった
これらは各々語るべき軸、論点が違うので楽しめたから勝ちとかそういう話ではない。
いわゆる「ソレはソレ、コレはコレ」
同一線上で別テーマを比較しようとするから温度差が生じる。
あー、わかりにくい?
ごめんね。ド陰キャなんでね。
ようするに、魚を釣りに行っているんだから釣れたほうが良いに決まってるし、いずれにせよ楽しく釣りが出来たほうが良いに決まってるよねってだけのクソシンプルな話。
釣ったから釣れなかったから楽しい楽しくないの話は正解から遠ざかるだけ。
心の底からどうでもいい不毛な議論であり、マウントを取りたいガチ勢とそうでない勢の悲しい泥仕合。個人的にはそう思う。
もう少し踏み込んで、噛み砕いてみよう
誤解を恐れずにもう少し踏み込んだところまで噛み砕いていきたい。
そもそも。そもそもだ。
「釣りを楽しんだもん勝ち!勢」と、「たくさん釣ったもん勝ち!勢」はそれぞれ主張が違う。
どちらかの主張が高尚なわけではなくどちらも一定の根拠がある。
これはもはやパンとご飯どっちが美味いか!?と議論しているのと同じことで、パン派から見ればパン派が正しいし、白米派から見れば白米派が正しい。つまるところただの宗教戦争。
これでおわかりいただけただろうか。
「釣れたから楽しいとか偉いとか、釣れなかったからショボい」とか「釣りを楽しむ」はまた別のテーマ。
まぁでも大半の人は成果に対して感情が現れてるかな
同一線上で議論するものではありませんよと述べた通りではあるけど、とは言え、とは言え。
大半の釣り人の釣行後の感想は
- 「釣れたから楽しかった」
- 「釣れなかったけど楽しかった」
- 「釣れなかったから楽しくなかった」
のいずれかが多数派の感想じゃなかろうか。
他にあるパターンとしては「釣れたけど楽しくなかった」だけどコレは闇が深い。釣り以外のことで嫌なことがあった以外考えられない。触れてはいけないセンシティブな部分だ。
ここからが大事なトコロで、「釣れたから」「釣れなかったから」という部分は成果に対しての欲求満足度の評価であり、尺度の部分。
たくさん釣れて楽しかった!と言う人は多いと思うが、たくさん釣れて楽しくなかった!と言う人はほとんどいないだろう。
やはり釣り人というのは大部分で成果(釣果)に対して楽しい楽しくないを見出している可能性と相関性が高いことは容易に推測出来る。
これを否定するのはかなり無理がある。否定できる可能性の低さは例えるならば、釣りガールのSNSに片っ端からコメントやDMを書いている気持ち悪い人のワンチャン確率ぐらい可能性は低い。
それは前述の通り当然のことで、魚を釣りに行っているのだから釣れたほうが良いに決まっているから。
「ご飯食べに行って食べてないけど楽しかったー!」とか言う人などいない。そんなヤツがいたら設定を間違えたままの不思議ちゃんぐらいだろう。
それらを踏まえた上で言い換えれば「成果に対して評価決めている勢」と「成果を評価基準としていない勢」の論争軸がズレたままの出口なき悲しい論争の様相を呈している。
ここまで噛み砕いて、やっと見えてきた感がある。
そもそも成果なんて曖昧。
さらに掘り下げてみれば、どちらの派閥、軍勢も認められる範囲が全然違うはずであり、これを同じ軸でぶつけるからさらに話が難しくなる。
成果に対して楽しかった楽しくなかったなんてのも個人差が大きく、1匹釣れて楽しい人もいれば、5匹じゃ足りない人もいるだろう。
場所や釣り方でも難易度が変化し、成果の基準も同時に変化する。
誰が挑戦しても0匹か良くて1匹が妥当な釣りであれば1匹釣れば評価されるに値するし、誰がやっても爆釣な釣りであればまた評価も変わる。
釣れて楽しかった、釣れなくて楽しくなかったの評価基準など、前提に応じていくらでも変わってくると言えるので他人の成果について口を出すのもまた不毛。
楽しみ方は人それぞれだし、そもそも楽しまなければならないものなのか?
魚釣りに行ってんだから釣れたほうが良いに決まってるよね。の話は終わった。
魚釣りに行ったけど釣れないほうが良い人の話は知らん。もはやわけわからん。
では次に、「楽しんだほうが良いに決まってるよね」って部分についてド陰キャなりに噛み砕こう。
この部分についても私のようなド陰キャにすれば思うトコロはある。
A君「いやー今日はちょっとしか釣れないから楽しくないわー!」
B君「いやいやちょっとしか釣れなくても楽しもうよ!」
これは一見すると成果に対して評価を決める勢のA君と、成果は関係なく楽しもう勢B君の不毛な意見対立の構造。冒頭でも書いた通り、ぱっと見は爽やかB君の意見のほうがなんとなく正論に聞こえる。
しかし、しかしだ。ぜんぜん違う。
これを正しいと思う人は自分が押し付けがましい性格なことを自覚出来ていない。
ここから話を難しくしても話が長くなるだけなので端的に言えば「楽しみ方ってのは人それぞれ」ってこと。断じて爽やかB君の意見が正しいとは限らない。
成果を基準に楽しむ人もいれば、成果を基準とせずに楽しむ人もいる。これを一括に言うと「価値観」という言い方にもなる。
大事なことは、楽しみ方の違いでどちらか一方の意見を簡単に否定したりせず、マウントを取りにいかないって事だね。
まぁでも、両者マジで貫いてほしいね
だいたいこの不毛な話の噛み砕きは終わった。
こんなドマイナーな最果てのクソブログのか細い叫びなど両派閥には届かないだろうけど個人的に思っていることはある。マジで触りたくない部分ではあるが一応言及しないわけにもいかない。
基本的に私はどちらの意見も尊重するが、尊重するが故に貫いてほしいねと。そう思う。
釣りはとにかく楽しもうぜ!勢の方には「全然釣れなくてアタリすらなくて周りはもう早く帰ろうぜみたいな目をしてて、これ時間の無駄じゃね?いやもはや人生の無駄じゃね?みたいな空気が漂っていても」楽しんでいただきたいし、
釣りは魚釣らな楽しくない!勢の方には「どこからどう見ても釣れなくても釣りを楽しんでいるエンジョイ勢を沈黙させて弟子入り志願させてくるぐらい」徹底的に魚を釣っていただきたいなと思う次第。
いや、強制はしないよ。楽しみ方は皆それぞれ自由で平等だからね。
ひらたく言うと、ゴールへの過程が違うだけ。
このどうでもいい話をついついここまで読んでしまった方はおわかりかと思うが
両者ともに「楽しむ」を目標に設定しているか、「釣果を出すこと」を目標に設定しているかの違いであり、楽しみ方の模索過程の相違によりぶつかっている。
もう少しマクロな視点で見れば目指しているところは両者とも過程は違えど「楽しみたい」もしくはそれに類似する感情に行き着くように思われる。過程は違えどね。
「魚全然釣れないのに楽しむとか無理でしょ」と一方をディスるのは論外だし、「魚釣れなくても良いんだよ楽しめたら勝ちなんだよ!」と煽り返すのもまた違う。
楽しみ方の過程に違いが見られるように、掲げる目標も正義もそれぞれ違う。
もうここまで来たらひらたく言うけど、目的地に車で行くのか電車で行くのか、徒歩で行くのか自転車で行くのかを論じてるだけで、中身としては空っぽのテーマじゃなかろうか。
楽しもうハラスメントの被害者は結構いるよ
ここまで物凄くとてつもなく心の底からどうでもいいしょうもないテーマを掘り下げたことで釣りを楽しもう論争を私に仕掛けてくる人は絶滅してしまったと思うのでここからはド陰キャの私の独り言。ド陰キャ劇場。
よくそんな闇の深そうなこと考えてんなと言われても差し支えのない部分。
これまでに述べた通り、釣った釣れない楽しもう楽しめないの話は同一線上で語らずに区切って話しましょうね、そしてそもそも不毛ですよと。
しかし。しかしだ。
これだけは言いたい。
「楽しみ方の形は人それぞれ」や「楽しみ方の強制は価値観の押し付けですよ」は前述の通りだが、
「楽しもうよ」を強制するのもまた違う。
とド陰キャ的には思う。
は?どういうこと?と思った方もたくさんいるかもしれない。
例えば
「今日は釣りを楽しもうよ!」「どんな形であれ楽しまなきゃね!」みたいな感じなやつね。
これは私の中で「楽しもうハラスメント」と命名している。
何気に「楽しもうハラスメント」は釣りをしているとかなり受ける。
「いやいや何がダメなんだよこのド陰キャやべーな!こじらせてるにも程があるだろwww」
と思った方は多いだろう。それは自覚しているのでそっとしておいてほしい。
しかし。しかしだ。
人間、楽しい日もあれば、楽しくない日だってある。
楽しめるに越したことはないが、楽しむために苦労したりツライ思いをすることだってある。
いくら好きでやってる釣りだとしても、何が何でも全てを楽しむことは難しい。
魚が釣れたとて、釣っても釣っても正解パターンをトレースしているだけの作業みたいな釣りの日だってある、それは私にとって全く楽しくないし、楽しみ方はわからない。
次回どうしても魚を釣りたいので釣れないパターンだけをひたすら黙々と試している日だってある。全然楽しくない。あれの楽しみ方があるなら教えてほしいくらいだ。
楽しみ方は人それぞれであると同時に、楽しいと思う思わない自由もまた平等にある。
しかし。しかしだ。
「俺の心を代弁してくれてありがとう!」とか思った全国の陰キャ諸君。
こんなことを外で言うとただのこじらせがヤバイだけの面倒くさいことこの上ないド陰キャになるので「今日は楽しもうね!」
って爽やかに言っておくのが無難であると、釘を刺しておきたい。
本当くそどうでもいい話だった
ここまで書いてきて、見直してみた。
すげーーーーー 心の底から、どうでもいいなと。感想を持った。
よくもこんなどうでもいいテーマで長々と文章を太らせたものだと。
本来こんなしょーもない事なんてのは普通の人が普通に釣りしてれば気にならない。
個人的にこういう正解のない沼議論を噛み砕くのが好きなだけで、ここまで書いておいて実は割とまじでどうでもいいと思っている。
人が人として当たり前に持ち合わせている道徳観があればなんら問題ない話であり、これを書くのも読むのももはや電気代の無駄とすら言える。
魚が釣れる日もあれば釣れない日もあるし、楽しい日も楽しくない日もある。
どっちが上とかじゃないんだよ。みんなそれぞれ平等に何を思うかは自由なんだよ。尊重し合おうよって、そんな単純な話。
本人が楽しもうが楽しくなかろうが満足出来たり、納得出来てればなんの問題もない、他人がとやかく言うことじゃないよって、そんな当たり前の話。
たった2行程度に圧縮出来るぐらいの簡単な話。
しかし、一方で私個人的にこうなりたいと思う姿は明確にある。
「釣ろうが釣るまいが俺が1番楽しむし、俺が1番釣る。」
さ、次はどんな泥沼議論に口出しするかなー。笑